摩天楼の下で :Returns

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2004年 09月 08日

語らずとも通ずる : 萬安@神泉

語らずとも通ずる : 萬安@神泉_a0033483_3115885.jpg9/3 以前勤めていた会社の繋がりで、2ヶ月に一度ほどのペースで神泉に集う。そのとき、いつも利用させて頂く店である。
ここのところ多発する内装だけに拘り、味やサービスが伴わないメシ屋とは逆行する趣である。洒落たインテリアも洒落た音楽も一切ないが、妙に落ち着く空気が漂う。
神泉界隈も随分と趣が変わってきたが歴史を刻むこの店は永遠に残って欲しい。

2Fの座敷を貸しきり状態で陣取る。
時間が止まっているかの如く、他愛もない話が永遠と続く。
でも、これまでと比して一つ足りないことがある。。。そう口に出さずともみな感じていることだ。
そういう状況では口に出さずとも悲しみの心は繋がる。

店主へ、
いつも心遣い頂き、ありがとうございました。
私にとっては永遠に忘れることのない店であり続けるでしょう。
これからもがんばってください。


~『東電OL殺人事件』より~

奥飛騨を追われた一族
円山町の一画にある仕出し屋兼日本料理店の「萬安」は、大正九(一九二○)年創業の老舗である。その二代目の女主人の天野とみによれば、戦前の円山町は昼間から三味の音が流れる粋な街で、料亭や待合の数は三百軒を超え、芸者衆も三百人は下らなかったという。
「新内流しや声色屋がいつもこの街を流していました。
料亭の門の前に立って芸を披露すると、なかから投げ銭がほうられる。そんな情緒あふれる花街でした。ただし 差別はきびしく、円山町生まれの子供というだけで区立の学校にも入れてくれない時代でした。風紀が乱れるというのがその理由で、子供たちは円山町に遊びにいってはいけないと、親や先生からきつくいわれたものでした」
 戦前は東急グループを創業した五島慶太、戦後は政治家の大平正芳らが足繁く出入りしたその円山町が一大変貌をとげるのは、戦後の復興も一段落ついた昭和三十年代初頭のことだった。。。。




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by taka_mura325 | 2004-09-08 13:48 | +美味なるモノを求め


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